投稿日:2022/04/15
いつか空を飛べるようになりたいのなら、まずその前に、立っていること、走ること、よじ登ること、ダンスすることができなくてはならない。──いきなり飛んでも、飛べるようにはならない!(※1)
デジタルデータに重力を感じさせるには?
「バーチャル身体の祭典 VIRTUAL NIPPON COLOSSEUM」を体験してまず驚いたのは、3Dアバターの動きに重さを感じたことである。
ダンスのアーカイブに関する仕事をする中で、身体形状/動作データの取得やそれらを用いた作品の制作にも何度か立ち会ってきたが、重力のない世界に住まうアバターの動きには、土より五寸ばかり上がりたる……とでも言いたくなるような不思議な浮遊感があることが多かった(現実世界にアバターを出現させるARの場合は尚のことである)。また、動きに応じて重心を変えることもないその身体は、どうも全身が石膏像的カタマリになりがちだ。
しかし重力こそが、ダンスにおいては肝である。空中で静止するかのようなニジンスキーの跳躍、「ゼロ・グラヴィティ」とも呼ばれるマイケル・ジャクソンの斜め45度の前傾、あるいは直立姿勢のままバタンと倒れる能・歌舞伎・舞踏の仏倒しなど、振付家やダンサーは創意工夫を凝らしながら地球を支配するこの物理法則に抗い、従い、戯れてきた。スタイルやテクニックの問題だけではない。たとえば同じ振付を異なるダンサーが踊る時に生まれる印象の違い——そこには、バランスの取り方の癖が大いに影響している。つまり重さの扱いは、動きの個性に直結しているのである。
それゆえ、大地をしっかりと踏みしめながら重心のありかを変化させていく様が、目の前に出現した原寸大のアバターのうちにはっきりと見出せたことには興奮した。
両脚を大きく開いて腰を落とし、身をかがめながら右に左に足踏みする舞踏家・村松卓矢。ステップのリズムはそのままに、徐々に足幅を狭めて伸び上がっていき、フラメンコのように螺旋状に上体をひねりながら一回自転する。その過程で、動きのテンションは下半身から上半身へ、肚から肩のあたりへと移行していく。
これまでにも、ジャンプ着地時の膝や足首のモーションで重力が表現されている例はあった。だが、村松アバターに感じるそれは明らかに質も解像度も違う。四方八方から眺めるうちに目に留まったのは、この全身白塗りのダンサーが履いている下駄だ。体勢のちょっとした変化が、二本歯の下駄の揺れに現れる——ライブパフォーマンスであれば、浮き出た筋や皮膚の緊張、呼吸、身に纏う衣裳の揺れなどから半ば無意識的に察知できる「ムーブメント以前の微細な変化」をAR空間上で可視化する道具として、下駄が実にうまく機能しているのである。
そんなことをあれこれ考えていたら、公開記念カンファレンスにて総合演出の川田十夢氏から「データが重力を感じる」という言葉が出たから、さらに仰天した。定着率との戦いであるARにおいて、動きがビターンと定着して見えるのは、一方ではテクノロジーの進化もあるが、他方ではパフォーマンスの強さによるものでもあり、踏ん張っていないとあのような見た目にならない、と。
しかも、数々の身体や動きをスキャンしてきた川田氏をもってしても「デジタルデータでこんなに生々しい獰猛な動きを再現できたのは初めて」という。ズッとにらみを利かせた村松氏の身振りの質が、フィジカルもデジタルも突き抜けて、拡張現実にまで影響を及ぼしていたとは!
体感や想像力を拡張する
型におさまらない属人的な表現や名人芸を記録するときは特に、動作データだけでなく、それを生み出す基盤となる形状データも一緒にアーカイブすることが重要だが、本作はそのデータ自体に非常に豊かでクリエイティブなアウトプットの可能性があることを実証している。
普段は並べて見ることのできない様々な身体と技が一堂に会するお祭りは、まさに圧巻。芸能・芸術・スポーツが分け隔てなく入り混じり、アオイヤマダの動きをインストールした加勢鳥のごとく、時には〈骨=動作〉と〈肉=身体形状〉を異なる人間が担いながら、現実には存在しない演目をバーチャルに創り上げている。
そして作品の終盤では、輪になって踊る加勢鳥たちの足が宙に浮き始め、地中から巨大化した村松卓矢の手と頭部が迫り上がり、その白い手の上から前川楓と西矢椛が空中に飛び出したところで一瞬時が止まる——まるでこの世の原理から束の間解放されたかのように。運動に内在する超越への憧れを可視化したようなクライマックスである。
神に扮した人間が浮揚する力を得ることも、顔だけで5メートルはあろうかという人間が海坊主のように現れることも、跳躍した人間が宙で静止することも、「現実」にはあり得ない。しかし実際のところ私たちは、そんな身体が身体を超えるイリュージョン的瞬間を日頃からあちこちに見出している。オーラや迫力によって目の前の人が実際以上に大きな存在に見えたり、倒れる瞬間全てがスローモーションになったように感じられたり……スポーツやダンスは、その最たる例だ。この点において本作は、人間の体感や想像力を拡張現実的に表現しているとも言えるのではないだろうか。
未来を創るアーカイブ
生まれたと同時に消える身体表現と経験に裏打ちされた技術を、できるかぎり客観的な形で記録し継承するべく、ノーテーション・写真・映像など様々な方法が試みられてきたが、これからは3Dでのアーカイブがますます進んでいくだろう。近づいたり離れたり回り込んだりと、距離や方向を自由に変えられるだけでなく、身体と動作を分解できるようになることにより、見方の幅は確実に広がる。
アーカイブは未来の文化や価値を生み出す基盤であり、単に保存するだけでなく、積極的に公開し活用していくことが求められる。いろいろな角度から光を当てることで、人の記憶を呼び起こすだけでなく、記録した当時は予想もしなかったであろう資料の新たな一面が顔を見せることもあるのだから。
まだ分からないことは、分からないまま記録する。
未来につなぐ。未来へ託す。記憶の数だけメタバース。
拡張現実は、記憶と記録を実空間に宿す。
あなたの未練をなぞらえて、あなたの未練を従えて。(※2)
何が記録できて、できないのか? データの精密さは保ちつつも、身体感覚や想像力を刺激し、その体験を拡張するには? 未来の研究や創造活動に資するには?——「バーチャル身体の祭典 VIRTUAL NIPPON COLOSSEUM」には、アーカイブと表現をめぐる思考のタネがちりばめられている。それは、現在の私たちへの問いかけであると同時に、未来に宛てた手紙でもある。
本作で用いられた3Dデータやモーションデータは、誰でも購入することができる。アーカイブ資料はなにも研究のためだけのものではない。願わくは、アートでもエンターテイメントでも、表現にどんどん活用されていってほしい。アオイヤマダ氏や村松氏が話していたように、動物の動きを人間に移植してみても、野菜を踊らせてみても面白いかもしれない。人の興味関心が、資料に命を吹き込む。創作と研究が相互に刺激を与え合うことで、もっと遠くまでいけるに違いない。
最後にひとつ、澁澤龍彦の言葉を引用して本稿を終えたい。
もし土方巽が復活するとすれば——これは考えるだに興奮と戦慄を誘うが——おそらく彼は「重力の魔」を手なずけた、新しき日本のツァラトゥストラとして復活するのではないだろうか。(※3)
=注釈=
※1 ニーチェ,フリードリヒ『ツァラトゥストラ(下)』丘沢静也訳、光文社、2011年、p. 81
※2「バーチャル身体の祭典VIRTUAL NIPPONCOLOSSEUM」内の『メタ講釈』より
※3 澁澤龍彦「土方巽について」、土方巽『病める舞姫』、白水社、1983年、pp. 231-232
呉宮 百合香
1991年生まれ。フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ第8大学(芸術学)と早稲田大学(文学)で修士号を取得。日本学術振興会特別研究員を経て、現在は日本及びフランス語圏の現代舞台芸術を専門に、研究と現場の境界で活動。国内外の媒体に公演評や論考を執筆するほか、ダンスフェスティバルや公演の企画制作、作品のクリエーション等にも多数携わる。また、ダンスアーカイヴに関するリサーチも継続的に行っている。
©︎桧原 勇太
バーチャル身体の祭典 VIRTUAL NIPPON COLOSSEUM
日本の身体を世界に発信するデジタル・パフォーマンスと、人体データのアーカイブ実践プロジェクトが始動!川田十夢(AR三兄弟)が、世界中どこからでも鑑賞できる舞台モデルを提示し、経験を宿した身体の価値を未来に伝える。
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