2023/03/20
契約は自分を守り、良い仕事をする環境を整えていくために必要
さぁ、一緒に『契約』の勉強をはじめましょう! 2023年2月に『フリーランスアーティスト・スタッフのための契約レッスン』講座が開催されました。音楽、舞台美術、映像、美術などさまざまな芸術分野で、フリーランスのアーティスト、スタッフとして活動する方に向けた、楽しく学ぶこの勉強会は、たくさんの申し込みですぐに定員に達したほど高い注目がありました。 近年、契約についてアーティストや業界関係者から重要視する声が上がったり、文化庁が無料窓口を設けるなど具体的な動きが生まれてきていました。これからの文化芸術業界をより良いものするために。契約状況の改善や研究にとりくむ小田原のどかさん(彫刻家、批評家)と、ろう者が芸術作品により親しみ深く鑑賞できる環境づくりに取り組んでいる木下知威さん(建築家、研究者)に、フリーランスアーティスト・スタッフにとっての契約の課題や、契約時に気をつけることなどを語ってもらいました。
より良い関係、より良い創作のための「契約」とは
ーー近年、文化芸術の分野でも「契約」の必要性が意識されるようになってきました。フリーランスのアーティスト・スタッフの契約について、どんな課題や重要性を感じていますか?
小田原
私も『フリーランスアーティスト・スタッフのための契約レッスン』に参加して、ガイドブックをいただきました。これは文化庁が策定した『文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けたガイドライン』がもとになっていて、文化庁のウェブサイトにはその検討会の様子が公開されています。そこに、「分野特有の空気」として、「交渉・協議そのものができない雰囲気」があると指摘されていました。 これはまさにそうなんです。アーティストとして仕事の依頼を受けたとき、発注者と細かな条件を交渉して、対等な立場で何かを要求することが、とてもしづらい空気があります。その根っこに当たるのかなと思う経験は、実は美大生のころからありました
ーーその話をお伺いすることはできますか?
小田原
はい。たとえば、彫刻の制作現場で、人手がいる作業です。危険が伴う場合もあるので、本来は「今からこういう作業をします。ここが危ないかもしれないから、こう気をつけよう」と最初に話し合うべきです。とはいえ、時間が限られていたり、説明することに不慣れな人もいますので、「言わなくてもわかるでしょう。余計な質問はせずに、空気を読んでよ」ということがありました。でもやっぱり、言葉にして確認しないまま、全員が同じ意識を共有しなければいけないなんておかしいですよね。一人ひとり違う人間であることを前提に、「今から何をするのか、どう進めていくのか」という合意を形成していくことが大切です。それが契約を締結したり、契約書をと交わしたりすることにつながると思います。 「交渉・協議そのものができない雰囲気」とは、「言わなくてもわかるだろう、わかれよ」という同調圧力のことだと思うんです。そんな進め方はおかしいし、変えていきたい。ですから今回、文化庁からガイドラインが策定されて、レッスンやガイドブック作成などで、「分野特有の空気」が変わる気運が出てきたことに希望を感じています。
木下
契約書によって、やらなければならないことを後で確認できる状態にしておくことは大切ですよね。もし内容にはないことが起きたときに、契約書があれば立ち返ることができます。計画に変更があったときに対等な立場で仕事をするために、基準となる契約書がとても重要です。
私は講演や執筆の際には契約書を取り交わしますが、商業誌は締め切りがタイトなことも多いので、メールだけでやりとりすることもあります。メールが証拠として残りますから。当たり前のことかもしれませんが、最低限、相互に何をするべきか、〆切(納品)や報酬の内容の明示は必要だと思います。
ーー契約書の大切さを感じてはいても、経験がないために、実際に取り交わすときにどう進めたらいいのかわからない方も多いと思います。事前に知っておいた方がいいことはなんでしょう?
小田原
場合によってはメールですらなく、電話や飲み会の席で、「次にこういう現場があるから予定を開けておいて」「この助成金が取れたら展示をしてね」という口約束も多々あります。今回のレッスンで、講師の林かすみ弁護士が、「口約束の場合は、そのつど「ここでこういう話をした」という覚書きを残したり、後で確認のメールを送るなどして文章を残しておくことがすごく重要だ」と教えてくれました。そうやって自分の仕事や作品を守る方法を身につけたいですし、同時に、自分がだれかに理不尽な内容の仕事を押し付けていないかも気にしたいと思います。 そのためにも、記録を残すことが重要です。「あの時これを言った」「いや、言ってない」ということが起こらないようにする。契約書についても、公開されているひな型を利用してもいい。韓国の場合は、政府によって標準契約書のひな型が66種類も用意されているそうです。日本でも契約が当たり前になっていくといいですよね。
木下
66種類!たくさんあリますね。口約束で決まってしまうことが確かにあります。それだけにメールなり、記録は常に取っておくことが大事です。 もうひとつ、契約書の条項をきちんと理解しておくことも大事ですよね。このことを考えるときに興味深いケースとして、アニメ『トムとジェリー』があります。トムがある猫に一目惚れして、アピールするために中古車を買おうとする。それで、業者と契約をするシーンがあるんです。そのシーンには契約書がたくさん出てくるんですが、中には腕1本、足1本と引き換えにするという契約書も出てきて、トムはそれをちゃんと読まずにサインをしているんです。とにかく車が欲しいからですけど、身体の一部と交換するのは明らかにやりすぎです。 つまり、契約書を取り交わすとき、一方が不利益を受けるようなことがありうる。なので、内容を丁寧に確認することが必要です。また、これはアーティストの鴻池朋子さんから直接伺った話ですが、個展のための契約書を交わすときに学芸員さんとお会いして、契約書を声に出して読み上げることで確認をしているとのことでした。 とはいえ、いきなり契約書を出されて、その場で全部理解して、自分が希望しない条件が書いてあるかどうかにすぐ気づくのは難しい。もしサインしてしまったら、今は弁護士事務所に無料の相談窓口があります。そういうまず、話せる場所の存在がもっと知られていくことで、契約についての抵抗感も減っていくんじゃないかな。その意味で、このガイドブックの6ページから契約書の条項例が解説されているのはとても良いと思います。
契約はどう進めたらいい?『契約ガイドブック』の存在
ーー文化庁の契約ガイドブックや今回の講座で知ることができてよかったことや注目ポイントはありますか?
小田原
私は映像に関する「著作権」と「著作者人格権」の違いを初めて知りました(ガイドブックp.18)。ほかにも「著作隣接権」など、著作権に関する情報が全部まとまっているページがあるのはありがたいです。自分のこれまでの作品が、どういう権利と関わっているかを振り返るという意味でも面白かったです。過去の作品を自分で点検して、契約や権利の側面から考えてみる。私は作品の中で、古い写真を使うことがあるのですが、「70年経っているから大丈夫だろう(*1)」くらいのあやふやな知識しかなかったので、もっと学ばなければいけないと強く感じました。
木下
小田原さんがおっしゃいますように、古い資料を図版として載せることがあります。その時は権利関係に気をつけないといけません。私も論文を書くときに、所蔵者に確認します。また、建築史に関する研究の場合は、設計図が分析対象になることがあります。古い図面を、パソコンのCAD(設計支援ツール)で改めて書き起こすこともあるのですが、そのときの権利についても非常に気にしています。たとえばある建築の図面が古本屋に出回っていて、それを購入して論文に使いたくなったら使ってもよいのだろうか。また、それを設計した設計事務所や建築がその時に存在している場合はどうすればよいのだろうか。実際のところ、建築史の研究者のあいだではまだ共通認識が統一されていないのではないでしょうか。
ーーお話いただいたように正しい契約のためには「権利」の知識も必要になります。契約にあたって「こういうことを考えなければいけない、知らなければいけない」ということを実感したのはいつごろでしょうか?
木下
人生で初めての契約は、大学院生のころに研究委託を受けたときです。いつまでに何を納品する。いつまでに報酬を支払うということが書いてあるぐらいの、紙1枚の簡単な契約書でしたが、契約したときに、契約というのはお互いに紐でつながれる。束縛しあうものだと感じました。
小田原
私は10代から彫刻を始めたことが大きいです。私もメンバーの一人として活動している『表現の現場調査団』(*2)では、昨年、美術分野の評価する側とされる側、教える側と教えられる側のジェンダーバランスを数字にして出しました。調査結果を見ていただければ、美術業界が男性優位であることは一目瞭然です。美術史でも、男性たちが決める「優れた作品」から外れると、排除されてしまう。私はそうやって消されてきた彫刻や彫刻家に関心があります。自分自身にも直接関係することなので、排除されてきた女性彫刻家の権利については意識せざるを得ませんでした。
木下
今、小田原さんは美術分野の彫刻では男性中心だという話をされましたが、近代の絵画も男性優位ですよね。ここで思い出すのは、画家とヌードの女性の関係です。たとえば、画家の湯浅一郎が明治20年代に山本芳翠(ほうすい)の画塾にいたときの回想があります。洋画を学ぶ学校なんですが、そこではヌードを描くときに、モデルの女性を探してもなかなか見つからず、なんとか見つけたのが耳の聞こえない女性だったんです。その人について書かれた文献を読むと、女性はほかの人と円滑にコミュニケーションを取るのは難しかったと思います。明治20年代は明治時代の聴覚障害教育がまだ始まったばかりで、日本にいるろう者全員が教育を受けているわけではありませんから、言葉によるやり取りに困難があったのではないでしょうか。 つまり、その女性はヌードになる際に何らかの契約書を交わしたのかどうかということです。仮に交わしていなくとも、その女性は画塾の人たちとやり取りをしてヌードになることの意味をどのように理解していたのだろうか。どこまで合意形成がなされたのかなと思います。
また、契約において、コミュニケーションは非常に大事ですが、日本には「義理」の文化がありますよね。義理というのは、家族やパートナーなどの親密な関係以外で、他人から何らかの依頼があった場合に応えようとする気持ちのことです。たとえば、ある人と一緒に仕事をしているときに追加で依頼があったとする。「これをちょっとやってくれない?」という感じです。そう言われても、事前に依頼された内容ではないから「うーん、どうしようかな」と悩むけれども、「これまでの付き合いがあるから」と対応する。もし、フリーランスで活動している方はこの依頼を断ると今後の付き合いがなくなるかもしれないという不安な気持ちになると思います。こうしたことが起きるのは、私たちの心に「義理」があるからで、義理とは何か、その概念やメカニズムを認識していることが大事だと思います。 その一方で、契約を交わすことで自由な雰囲気が消えていくこともあるし、契約書がないことによって臨機応変に丁寧に関係をつくっていこうとする場合もありますよね。
小田原
木下さんがおっしゃるような、契約が「縛る」という感覚になる場合、そもそもそこでの「自由な雰囲気」がどのようなものかに私は興味があります。口約束にも法的効力はあるわけですから、まったく違う人間同士が敬意を持ちながら安心して仕事をするためにこそ契約という合意形成は必要で、それはきっと「義理」的なものを損なわないはずです。
対等な立場をつくり、維持していくには
ーー今後、契約やコミュニケーションについてどういうことを意識していったらいいでしょう?
小田原
ギャラリーと作家や美術館と作者は、やはり対等な関係ではないんです。だからこそ「対等な立場で契約を交わす」という行為を、あえて心がける必要があると思います。だれしもの人権が尊重される持続可能な美術業界は、そうやってみなが努力しなければ実現しないものなのかもしれないと考えています。
木下
同感ですね。対等な立場で契約をした後に意識することとして、情報共有がひとつのポイントでしょうか。人事や個人情報など機密性の高い情報はともかくとして、チームである仕事を進めるときに、たとえばメールの「CC」やチームワークのためのツールに全員のアドレスを入れ、仕事の方針、進捗、すべきことについて情報共有をすることが大事ではないでしょうか。情報共有がされなかった場合、情報を持っていない人はチームの方向性、全体進行の度合いや自分に任された仕事を進めるときに何に注意すべきなのか、守らなければならないことは何か、自分の裁量は何かわからなくなります。そうすると、言われたままにやるだけになり、仕事に対するモチベーションも下がることもあります。労働環境の悪化につながり、場合によってはハラスメントやトラブルの要因になりかねません。
ーー契約を結んでも、もしすれ違いが起きた場合にはどういう解決方法があると思いますか?
小田原
私は母校の労働組合の立ち上げに関わりました。組合から申し入れれば、大学は交渉に応じる義務があります。実例を出すと、まったく正当ではない理由から配置転換や解雇を通告された方がいて、交渉によって撤回しました。契約の内容や現状を確認して、粘り強く、対等な立場で交渉をしていく。契約書を交わすことともに、対等に交渉することも、もっと根付いてほしいと思っています。
木下
ひとりで抱え込まないことですね。小田原さんのおっしゃいます、労働組合や弁護士と一緒に交渉する方法は重要で、広く共有されるとよい方法です。また、私は耳が聞こえないので、どうしても情報共有に差はあります。きちんと情報をすり合わせることから始めることが大事ですね。 医療で“インフォームド・コンセント”という、医師が患者に治療のプロセスをきちんと情報提供し、相互に納得することを意味する用語がありますよね。しかし、これは医療のみならず、人と関わる仕事において通じる考え方です。他者と仕事を進めるときにすれ違いが起きても、まずはそれについて話しやすい環境をつくれるようお互いに考えていくことが基本だと思います。
※契約についてのノウハウが無料で公開されています。また、契約レッスン講座の詳細は近日YouTubeにて公開される予定です。ぜひご覧ください。
文化庁「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けたガイドライン」
*1 著作権や著作隣接権などの著作権法上の権利には保護期間があり、原則として著作者の死後70年までとなっている
*2 表現の現場をすべての人びとに平等に開かれた場に改善していくために発足した団体。
小田原のどか
彫刻家、評論家。1985年宮城県生まれ。多摩美術大学彫刻学科卒業後、東京藝術大学大学院先端芸術表現専攻にて修士号、筑波大学大学院にて芸術学博士号取得。著書に『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021年)。主な展覧会に「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」(個展、国際芸術センター青森、2021年)、「あいちトリエンナーレ2019」など。複数の大学で非常勤講師を務める。「表現の現場調査団」メンバー、多摩美術大学ユニオン支部長。
https://www.odawaranodoka.com/
木下知威
歴史家。1977年福岡県生まれ。横浜国立大学大学院修了。博士(工学)。専門は建築計画学・建築史・身体障害者の歴史。とくに近代日本の身体障害者の身体や教育をめぐる言説や補装具の概念について研究している。論文に「車椅子の誕生」(2021年)、「点字以前:18-19世紀の日本における盲人の身体と文字表記技術の交差」(2019年)、『伊沢修二と台湾』(2018年)、「指文字の浸透:蘭学・洋学における西洋指文字の受容」(2017年)など。業績一覧は以下。 https://researchmap.jp/tomotake
取材・文:河野桃子 撮影:星茉里