2024/02/13
THEATRE for ALL 編集部員のザコウジです。4人の子どものうち3番目の次女ハルが、うまれつき脳性麻痺で全盲、いわゆる“重度心身障害児”です。
現在はフリーランスでライティングや編集・広報などの仕事をしながら、ハルが社会の一員として心地よく暮らしていける道を探っています。
今回は、「まるっとみんなで映画祭2023 in KARUIZAWA」に先駆けて開催された「みんなでつくる地域イベント研修会」に参加して感じたことを、自分の経験や思考を交えて綴ってみました。
まず前編では、研修会で共有された「合理的配慮」をめぐって考えた内容を中心にお伝えしていきます。
娘、ハルについて
2015年2月、ハルは小さく産声をあげ、私は3回目の出産を経験して、重度の障害を持つ子どもの母親になりました。
お腹の中で成長がとまってしまったハル。
生きて生まれてこれるかどうか分からなかったハル。
頻回な発作を抑えるためにいくつもの投薬をし、生きるために何度も輸血をしたハル。
そのどれも、上の子のときは経験したことがなかったけれど、上の子と同じようにただただいじらしく、そしてただただ守るべき存在だったハル。
出産直後の様々な検査でありとあらゆる説明をうけ、「おそらく歩けるようにはならないでしょう」と言われていました。でも、それが障害をもって生きていくことだと理解できたのは、出産から半年ほど経ち、他の子との違いが顕著になってきた頃でした。
目が見えない。寝返りができない。筋緊張がひどく、ベビーシートから転げ落ちてしまう。離乳食の段階が進まない。言葉が出ない。座れない。発作で息が止まる。
でも、ハルは必死でおっぱいを飲み、乳児独特の甘い香りを放ち、寂しくなったら声をあげて泣きます。お兄ちゃんやお姉ちゃんがそうだったように、いやそれ以上に、生きることにとても前向きで必死に見えました。
見えない世界で、言葉のない世界で、彼女は8歳になった今も、笑顔や涙やわずかな体の動きで世界との交信をはかります。
私が歩いてきたのとはまったく違う世界を生きるハルの人生は、なんてエキサイティングなんでしょう。それは、新しい生命体との出会いに驚きを感じた最初の出産と変わらぬ、ポジティブな感情でした。
でも、世間はそうは捉えません。気がつくと、それまでの子育てとは違う困難がいくつもありました。そうか、これが世に言う「障害とともに生きる」ということか…私はだんだんと理解していきました。
筋緊張がひどくて大人一人では車で連れ出すことも困難でしたが、それをサポートしてもらえる仕組みは(少なくとも8年前の当時/私が住んでいた場所では)ありませんでした。彼女を預かってもらえる場所はごく限られていて、他の子どもの送迎も買い物もすべてハルと一緒。想像していただければと思いますが、一人で車椅子を押しながら買い物カートも同時に押すのは至難の業です。
さらに、ハルは8歳の今もペースト食しか食べられないので、外食のときは気を遣いながら高齢者用のレトルト介護食や自宅で作ったペースト食をタッパーに入れて持ち込みます。車椅子で電車や飛行機に乗ろうとすると、小児用車椅子を車椅子と認識してもらえることはほとんどありません。認識してもらったとしても控えめに言って通常の倍の労力と時間がかかります。家族でのキャンプも登山も海水浴も、行くのはハルの体調と安全の確保が第一。
困難があるなら家でじっとしていればいい、という考えもあるかもしれません。でも我が家の場合は、ご近所さんやお友達家族を頼ったり、家族総出で協力してえいやとハルを連れて行ったりすることで、気づいたら困難を困難と深刻に受け取ることなく、それなりに楽しく生きてきました。
私は、困難があってもハルを社会に連れ出すことが、私たち家族の使命だと思っています。
なぜなら、知らないことは恐怖を生むから。
そして、誰かと繋がることは、力になるから。
それはたぶん、ハルにとっても、ハルと出会う誰かにとってもそうだから。
ハルを知らない人は、他の人と違う動きをしたり違う乗り物に乗ったり発作が起こるハルを見て、怖いと思うかもしれません。でもハルは、怖くありません。ハルとの生活には大変なことや難しいことがたくさんあるけれど、ハルがそこにいることといないことには、大きな違いがあるのです。でもそれは、一緒にいることでしかわからないのです。
そのことを、できればいろんな人に知ってほしい。
だからハルをどんどん社会に連れ出したい。
ところが世の中は、仕組みや制度や人々の意識が、みんなが混ざり合う設計にはなっていません。学校ですら別々の場所であることがほとんどです。大多数の人と違う形で世界を捉え、生きる人たちが、普通に混ざり合う社会にしたい。困難を軽やかに乗り越え、身をかわし、心地よく生きていきたい。
そのために大切な考え方の一つが「合理的配慮」という考え方です。
「合理的配慮の提供」とは、「障害のある人から『社会の中にあるバリア(障壁)を取り除くために何らかの対応が必要』との意思が伝えられたときに、行政機関等や事業者が、負担が重すぎない範囲で必要かつ合理的な対応を行うこと」である。
実はこの「合理的配慮」、来年の4月から民間事業者にも義務化されることになっていますが、一体それがどういうものなのか、具体的に何をしたらいいか戸惑っている方も多いかもしれません。もしかしたら、中には間違って理解されている方もいらっしゃるかも。
私自身も、障害のある娘がいなかったら、「合理的配慮」という言葉とはおそらく無縁でした。
合理的配慮とは、「かわいそうだから特別扱いをしてあげる優しい配慮」ではありません。「物理的な構造や仕組みが原因で生活に困難が生じたとき、その障壁をどうやったら取りのぞけるかを考えること」だと私は理解しています。定義のあいまいな「優しさ」に頼るのではなく、社会の仕組みや構造を変えることで確かな解決策を切り開いていくことなのです。
合理的配慮は「コミュニケーション」。対話し、できることを互いに探っていく
2023年11月、障害のあるなしや年齢性別に関わらず、すべての人が映画を楽しめるようにと企画された「まるっとみんなで映画祭2023 in KARUIZAWA」。これに先駆けて、地域のボランティアさんやスタッフ向けに開催された「みんなでつくる地域イベント研修会」では、あらためて「合理的配慮」について考え、実践する機会が設けられました。
研修会の中では、運営事務局の星野さんから、合理的配慮の基本的な考え方について説明がありました。
合理的配慮は、障害が個人の心身機能によるものではなく、大多数の障害がない人を前提に作られた社会の仕組みに原因があるという「障害の社会モデル」の考え方に則ったものであること。そしてそれは、必ずしも障害のある人だけの話ではなく、個人差や老い、不慮の事故などにより誰もが直面しうることであるということ。
さらに、車椅子でレストランに入店する場合や、聴覚過敏がある方の音楽教室での例が紹介され、そのどちらの場合も、まず困難について当事者が発議すること、そして対話を通じてお互いに無理のない解決策を探るというプロセスが印象的でした。
これを聞いて、思い出したエピソードがあります。
仲良くしている飲食店の経営者の方に、ペースト食しか食べられないハルとなかなか気軽に外食が楽しめない話をしたときのこと。彼女は次のように言いました。
「私たちも知りたいんです。教えていただいたらいくらでも対応したいし、対応できる方法を一緒に探したいと思っているんです。私たちは食を通じて喜んでもらいたくて飲食をやっているので、来てくれた方に喜んでもらいたいんですよ。」
嚥下障害という、いわゆる食べられる形態に制限がある人たちでも外食を楽しめるようにするためには、ビジネスとして形にしなくてはとか、何か型をつくって提案しなくてはとか考えていた当時の私は、目からウロコでした。
もちろん、お店の形態や考え方、人員状況や忙しさなど様々な要素が絡んでくるのだとは思いますが、彼女が最後に言った一言が全てだと私は感じました。
「結局はコミュニケーションじゃないですか。」
そう、難しい言葉で定義されているけれど、合理的配慮って、結局はコミュニケーションをとりましょう、ということなのかもしれません。
だとすると、何が合理的配慮で何が合理的配慮ではないかを最初から線引きをしてしまうのは、そもそも合理的配慮のあり方として矛盾しています。考え方のガイドとして事例は参考にするとしても、お互いにその都度丁寧に向き合うという姿勢が必要でしょう。
そして、個人的にぜひ知ってほしいと思うのが、障害のある当事者も悩んでいるということです。こんなことで声をかけたら迷惑なんじゃないかとか、本当はもっとこうしてほしいけど、伝えることで嫌な気持ちにさせてしまうんじゃないかと考えると、なかなか自分が感じている困難を声に出すことが難しいこともあるのです。
まずは、困っている人が、困っていると声を出すことに、寛容な社会になってほしいと願います。
障害は本当に皮膚の外側にある?空気を共にすることが合理的配慮を下支えする
では、困っている人が困っていると声をあげ、困っている人の声を受け取った人が柔軟にコミュニケーションを取るために必要なことって一体なんなのでしょうか。
そもそも障害の「社会モデル」という言葉は、1983年にイギリスの研究者によって提唱され、徐々に社会に実装化されてきた考え方で、日本では1960年代から当事者運動として広がってきたものに当たります。私自身は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件の後、特に様々なメディアで取り上げられたことによって意識するようになりました。
私はこの考え方をとても支持しているとともに、誤解を恐れずに言えば、実はどこか冷めた目で見ている部分があることを告白します。障害の社会モデルを語るとき、よく「障害は皮膚の内側ではなく外側にある」と表現されるのですが、我が子を見ていると、どう考えてもやっぱりそれは当てはまらない、と感じてしまうことがあるのです。
ハルは生まれつき、ほぼすべての生活に介助が必要です。生まれつき頻回な発作に襲われ、生まれつき光を感じる程度にしか目は機能しません。笑うことや泣くことはできるけれど、ことばを覚えたり発話したりすることはできません。彼女が何を求めているのか汲み取るのは、親ですら困難なこともあります。(もちろん、長年生活を共にしているのでなんとなくわかることもありますが、あくまでも推測の域を出ません。)
車椅子や視覚障害に関しては、例えばエレベーターやスロープなどの設備や、点字や音声読み上げ機能などといった、社会モデル的なアプローチで解決できることが多いと思っています。でも、それに加え、ハルのように知的障害や頻回な発作があったら、どうでしょう。
スロープがあったとしても、必ず誰かが介助する必要がありますし、介助してください、と彼女が自ら声をあげることはできません。点字や音読も同様に、そういった機能があったとしても、今のところは言葉そのものの理解がどの程度できているか確かめることができません。
例えばハルをバギー(小児用車椅子)に乗せて買い物にいきます。スーパーで彼女が大きく咳き込むと、一斉にみんながこちらを向きます。「咳をして具合が悪い子を連れ出して」という視線を感じます。大きな発作がおきて声が出てしまうとき、怖いものを見るような目で見られます。私がそう感じているだけで、実際は違うのかもしれませんが、「得体のしれない人の得体のしれない仕草」に対する視線を感じてしまうのです。
「違うんです、これは風邪を引いているのではなくて、痰を出したくて咳をしているのです」「違うんです、発作が起きてつらいのは本人なんです。何も周囲に迷惑はかかりません。」
そうやって大声で叫びたい気持ちになりますが、いい大人なので毎回そっと視線をかわし、何食わぬ顔でバギーを押します。なんだったら長男や長女も、大人ではないけれどもそっと視線をかわしているように見えます。
うまく言葉にはできないのですが、障害の社会モデル的な解決”だけ”では、限界を感じてしまう場面に時々出くわすことがあって、それが「冷めた目」を生み出します。頻回な発作を起こしてしまうことや、言葉の理解がどの程度できているかわからないことは、どうやっても周囲の環境や仕組みだけで解決できないじゃないか、やっぱり「皮膚の内側の問題」なのではないか、と思ってしまうのです。
でも、たぶん、変えられるんです。確かに皮膚の外側だけの問題ではないけれど、皮膚の内側の問題を少しずつ外側の問題にしていくことが、きっとできるんです。
もし、小さい頃からみんながハルを知ってくれていたら。
もし、当たり前のように学校の教室にハルが通っていたら。
もし、当たり前のようにショッピングモールや図書館や映画館や美術館に、ハルがいたら。
ハルと、ハルのように他の人とは違う特性のある何千何万という人たちが、当たり前のように、みんなと空気を共にする世界だったら。
家族と同じように、ハルの特性を自然と知り、当たり前のように車椅子を押したり、当たり前のように発作がおきたら肩をさすってくれる人が増えるのかな、と夢見るのです。
合理的配慮は、困っている人が困っていると声をあげ、声を受け取った人が柔軟にコミュニケーションを取ることだと私は解釈しています。そして、みんなが無理なくコミュニケーションをとるために必要なのは、日常で当たり前に「空気を共にする機会」なのではないでしょうか。
障害が皮膚の外側の問題であるという考え方に、少しでも私の「冷めた目」がいい意味で裏切られていくことを夢見て、私達家族は、できる限り、ハルとともにいろんな場所に出向きます。ハルのバギーを押して、世界中、どこまでも。
後編につづく
執筆者
座光寺るい